ミッションスクールに通う少年の友情と神の存在への心の揺れ動きを描く『僕はイエス様が嫌い』。本作が長編デビューとなり監督・撮影・脚本・編集を手がけた奥山大史監督に作品の魅力についてお聞きしました。
『僕はイエス様が嫌い』あらすじ
祖母と一緒に暮らすために、東京から雪深い地方のミッション系の小学校へ転校することになった少年ユラ。日々の礼拝に戸惑うユラの前に現れたのは、小さな小さなイエス様だった。他の人には見えないけれど、願い事を必ず叶えてくれるイエス様を信じ始めたころ、ユラに大きな試練が降りかかる…。
ピュアな友情を描きたいというのが一番にありました
−−日本の中で、キリスト教徒はマイノリティな存在だと思います。信者の視点から観たらリアルに感じる内容だったのですが、そうじゃない方はどう観られると思って作られたんでしょうか。ファンタジーとして消費するのか……。
奥山大史監督(以下、奥山) 海外に比べ、日本ではキリスト教徒という存在はおっしゃる通りマイノリティであるので、極端に批判されることはないだろうとは思っていました。僕自身、プロテスタントの学校にずっと通い続けていたので、違和感を感じない礼拝などの景色を一般の方が理解してもらえるのか不安はありましたね。
−−生徒全員が「主の祈り」を祈るシーンが全文カットされず入っていましたが、多くの方はそのものを知らないと思うんです。キリスト教徒なら九九のように頭の中に刷り込まれている文言ですが。あの違和感を抱く可能性のあるシーンを入れられた意図はなんだったのでしょうか。
奥山 由来(主人公)の馴染めない感じを出したかったんです。みんなが覚えているものを自分だけ覚えていないと言うのは疎外感が強いじゃないですか。僕自身、普通の幼稚園に通っていたところからキリスト教の園に転園したんですね。その時、「主の祈り」をみんなが覚えているのに自分は何を言っていいかわからないという経験をしていて。先生の話を聞くだけなら周りと差が出ないのですが、何も見ないで黙祷して行う祈りは差が出る。そういった経験を由来にもしてもらいたいと思って入れました。
−−根本的にキリスト教を媒介して、友情をテーマに書こうっていうのが独特だなと思いました。監督の実体験もあると思うんですが、友情をメインテーマにするときに、なぜキリスト教を媒介にして物語を構築されたんでしょうか。
奥山 僕が子どもだった頃のピュアな友情を描きたいというのが一番にあって。それを実体験から作り出そうとすると、どうしてもキリスト教が僕の中にあったんです。小さい頃から仲の良かった友人が亡くなって。本作は彼に捧げる作品でもあるんです。そういった時に、やはり神様がいるのかという疑問なども入り込んできて……。あの頃、うまく消化できなかった想いを活かしながら作ることで描きたい友情をより描けると思ったんです。
本作ではタブーとされているものに挑戦していきました
−−日本の中でキリスト教はとても特殊な捉え方をされている宗教だと思うんです。これが別の宗教だったら捉えられ方は違ったんじゃないかと。監督は日本の中でのキリスト教の立ち位置をどう思われますか。
奥山 すごく身近だなと思いますね。皆さんが思っているより。まずクリスマスを祝いますよね。それを本当にイエス様の誕生日として祝っている人がどれだけいるんだと思いつつも、そういう文化が根付いていて。とはいえ、数日経ち除夜の鐘を聞き、お寺に行き、あと1日明ければ神社に初詣に行くという……。日本では簡単に宗教をまたぐんですよね。そのまたぎを僕も違和感なくやっていたので。そこは映画でも変わらず描きたいなと思い、由来と和馬がお賽銭するシーンなど色んな宗教を描きました。キリスト教に限らず、多くの日本人は宗教の存在を俯瞰して見ていないのだと思います。
−−本作では、子役を主人公として動物も出てきますが映画の学校などに通うと「子役と動物は扱いが難しいのでなるべく登場させない」と教わりますが、そこに手を出すのは大変ではなかったですか。
奥山 キャスティングするまでが大変でした。子役演出の8割はオーディションで選ぶことなので、その時から演出が始まっていると思います。大人の役者さんでしたらどういった役を演じてもらうかに重きが置かれますが、子役さんの場合は役に対していかに近い子を選べるか。かつ、選んだ後に役柄に近づけることが演出なので選考にはこだわりました。佐藤結良くんと大熊理樹くんを見つけてからは演出もスムーズに進みました。たしかに、学校などでプロットを書くと「子どもと動物は扱うな」とよく言われます。だからこそ、本作ではタブーとされているものに挑戦していったというか。子どもと動物をしっかり使って、学生が作る時に塩梅とされている役者を目指している15歳から25歳のいわゆるあまりお金を出さずに出てくれて、同世代でコミュニケーション取りやすい人を出さない。なぜなら、そうすることによって自主映画臭が出過ぎてしまうことを避けたかったんです。
−−時代設定を今ではなく、2000年頃に設定された理由はなぜですか。
奥山 今にしなかった理由は、色々作ろうと思えば言えるんですよ。昔のあの雰囲気が好きだからとか……。正直言うと、スマホがすごく嫌いなんです。普段は自分も2台持ちするくらい愛用しているんですけど、映画として撮るのが嫌いで。画映えがあまりしないんですよね。
−−たしかに違和感ありますよね。平面が出ちゃうというか。
奥山 そうなんですよ。だったら、せめてガラケーか子機がいいんですよ。そうなると違和感のないのが時代設定を少し昔にすることで。由来の友達から電話がかかってくるシーンでも、お母さんの携帯にかかってきたら変だし、由来が携帯を持っていたら「もう持っているのか」となるし……。やはり、「トゥルルッ」と電話掛かって来て、「誰だろう?」と子どもが言って、お母さんが「○○じゃない?」といいながら電話に出るのは誰もが共感出来るシーンだと思うんです。そういうことをきちんと描きたくて、少し時代設定を昔にしたというのが大きいところです。あとは、4:3で撮りたかったのも理由の一つです。
神様とは何かと考えることは、同時に人とは何かを考えること
−−今作は、監督の実体験も含め、内面から出てきた要素が強いと思うんですが、今後はどういった作品を撮っていかれたいですか。
奥山 決して一つのテーマにこだわって撮り続けるタイプでもないと思うので、色んなテーマに挑戦していこうと思っています。神様や少年だけを撮りたいということもなくて。次の作品に関して言えば、インディペンデントで少し昔っぽい雰囲気の逆で、大衆的で商業的なベースに重きを置いた作品をプロの役者さんを使って、例えば近未来のモノなど作りたいですね。
−−近未来を描いた作品、SFというのは神や超越した存在について隣接しているテーマだと思うんです。『マトリックス』や『AI』などメジャーな作品でも取り上げられているテーマで。監督の中にそういった意識があり今後も描いていかれるということなのでしょうか。
奥山 神様とは何かと考えることは、同時に人とは何かを考えることだと思うんですよ。人は神様になれないのはなぜなのかとか考える。そうするとロボットは人なのか、ロボットを作った人間は神なのか……。そういうことを考え始めるとSFと神の概念は近い気はしていますね。SFでそもそも人間とは何なのかということは描いてみたいとは思っています。
−−宗教のことをもう少しだけ聞きたいんですが、マルクスは「宗教はアヘン」つまり鎮痛剤のようなものだと言っているじゃないですか。監督にとって宗教とはどのようなものだと思われますか。
奥山 どういうものかを知りたくて、本作を作り始めたんですけども、鎮痛剤は合っている気がします。僕として、今辛いことから逃げるためのものという捉え方よりは、人間やはり死ぬのが怖いじゃないですか。そこを知りたいと思う動機にダイレクトに繋がっているのが宗教という気がして。自分がいくであろう先を少し覗き見しようとすることが宗教とも言えるかもしれません。だからこそ由来は劇中、自分がいるところから何回も外を見ようとするんですけど。車でも曇っている窓をキュッキュッと拭いて外を見たり、障子に穴空けたりして……。そういうところで宗教とはどんなものなのかを僕なりの答えとして暗に出そうとはしましたね。
−−最後に、会社員やりながら監督をやることについてよく質問されると思うんです。私も同時進行で活動しているのですが、そのことについてどう思われますか。
奥山 やはり大変な面は確かにあります。でも、会社員であることは何よりすごく自分自身にとって学びになることも多くあるので。その学びを最大限に活かしてこれからも映画制作を進めていきたいと思っています。
(聞き手・文/大山峯正)
◯PROFILE
奥山 大史(おくやま ひろし)
1996年東京生まれ。初監督長編映画「僕はイエス様が嫌い」が、第66回サン・セバスチャン国際映画祭の最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞。学生時代に監督した短編映画「Tokyo 2001/10/21 22:32 ~ 22:41」(主演:大竹しのぶ)は、第23回釜山国際映画祭に正式出品された。撮影監督としても映画「過ぎていけ、延滞10代」や映画「最期の星」などを撮影する他、GUやLOFTのCM撮影も担当。
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